SHUN先生の腹黒日記

 高校教師&劇作家・演出家  SHUN先生(早瀬俊)の超現実的日常

2016年11月

Yへ




Yへ

君は運命という言葉を信じることができるだろうか?
自分では抗うことの出来ない必然性というやつだ。
若い頃から死に場所を求めてきた僕が未だにこうして生きながらえているのも
もっと生きたいと願いながらもあの日多くの生命が失われたのも
運命という言葉で片付けることができるのだろうか?

外には白い雪が舞い降りてきて
思わず目の前の喫茶店に入った20歳の冬

真っ白なテーブルの
真っ白な椅子に腰掛け
君は真っ白な表紙の文庫本を読んでいた。
そして真っ白なカップと
真っ白なティポットと
真っ白なワンピース

紅茶のオレンジ色だけがぽっかりと景色の中に浮かんでいて
一瞬だけど時が止まり
僕の心臓は激しく鼓動した

君に背を向け
カウンターに座りバドワイザーを頼み
スクリューキャップを手で空けて
僕はそのままビールの苦さをボトルから直接受け取り
ああ
あと何年生きなければならないのだろうと
心の中で呟いた

君は僕の声が届いたかのように
本から視線を上げ
僕の背中を見つめていた

僕は振り返り
君と目があった。
それを運命というのだろうか?

僕には何も必要がない
若い頃はそう思っていた
だから何かを僕に期待する人々が現れるたびに
僕はそれを捨てて旅に出た。

何かに繋ぎとめられるのが怖かったのだ
それが君であっても

3年で戻ると嘘を言って僕は旅に出た
そして30年が経った
もう恋などできる歳ではなくなったはずなのに
僕は今でも
あのときの真っ白な風景に浮かぶ君の姿に恋をしている。

そして
今また全てを捨てて旅に出たよ。
それは君を探す旅だ。
決して捜しだすことができないだろう
それなのに
僕はあの頃の君ともう一度出会うことを信じている。



「私達」ではなく「私」から発すること



てなわけで
寒くなってきました。
北海道は今年は異例の雪だそうで
故郷の方も大丈夫か心配ですが・・・。

盒狂三賚困気鵑痢峙屬両紊離丱」を読みました。

オバマ大統領の広島での演説
皆さん絶賛していましたが
僕も盒兇気麁瑛輿把召房け入れることはできませんでした。

かつてアンダーグランド演劇でも実は私の芝居でも
「我々は」とか「私たちは」「僕らは」という言葉を多用していました。

これは社会が思想も趣味も生き方も個人主義に進んで行き
個に分裂していく中で
共通の意識や感情の存在を信じようという運動の表れでもありました。

しかしながら
オバマ大統領の使う我々とはいったい何なのか
おそらく世界の人々に共通する意識や感情や良識を信じようということなのでしょうが
世界を分断化させている張本人の国の大統領がこの言葉を使うことに対する違和感。
そんなものを感じていたのかもしれません。

最近のネットの中でも
語られるときの主語は「私達」であることに気づきます。

「私達は政権を支持する。」
「私達は○○に断固反対する。」

と言った時、
それはデモに参加している人間や
ネットの中の同じ考えを持った人々と
限定された集合ではありません。

集合の境界が曖昧で
どこまでも広がってしまうような世界という集合です。

「私」個人の考えではなく
「私達」という曖昧な集合を何処までも広げることによって
反対である人間
何も考えていない人間
そんなものを飲み込もうとする運動なのだと思います。

「正義」対「正義」の戦いは明らかに別の集合に属する者たちの戦いの構図となります。
けれども
「私達」という主語で語る時
それは戦わずして自分の正当性を主張し
拡散し
世界を飲み込もうと云う意識が働いているということなのではないでしょうか?

もっとも世界で力のある大国でかつ
もっとも酷い犯罪国家の大統領が語る言葉として

果たしてそれは素直に美談として受け入れてよいのだろうか。
そんなことを考えさせられました。

演説自体は素晴らしいいし
反論不可能な点も多いのですが
ですからこそ
私達はもう一度あの演説の意味を考え直さなければならないのではないでしょうか?

知らないうちに
集合の中に取り込まれないうちに・・・。

さて
そのためには
「私達」は「私達」ではなく
「私は」という主語で語らなくてはなりません。
デモに参加していようが
どんなサークルに所属していようが
どんな集団のメンバーとして括られようがです。

私が私の経験から私自身の意見を語ることを諦めてはならないのです。
民主主義はアマチュアの私達が議論をすることから出発するのだから。


私は思うのです。

世界の片隅で・・・愛を叫ぶなんてできない。

http://konosekai.jp/

てなわけで
お久ぶりです。
この間にトランプ大統領誕生のニュースが飛び込んできました。
民主党はサンダース氏を立てれば勝てたのでしょうが
一部の人間の既得権益を守る方向に縛られた結果といえるのでしょうね。

今やアメリカは100万人の庶民よりも
金を持っている一人の人間の利益を優先する国になりさがってしまった。
そのことに対する国民の怒りが招いた結果といえるのだと思います。

マスコミをどんなに操作して
都合の悪い事を一切報道しないようにしたとしても
ネット社会というのは隠し通せるものではないのです。
恐ろしくもあるのですが・・・。

そんな日本も他人事ではありません。
トランプ氏がどのような政策を・・・。
と云う風に報道が動いていますが
今回のことについては
日本も似たような風潮にあることを覚えておかなくてはなりません。

権力者がマスコミを操作する
その裏で真実が隠れてしまう。

私達は新聞やテレビを信用できなくなってしまっています。
だからと言ってネットの中も何を信じてよいのか分かりません。

様々な断片的な情報から
私達は真実を追求するしかない時代に来ています。
うっかりすると途端に騙されてしまうこの時代に。
権力によって潰されてしまうこの時代に。

そんな中「世界の片隅で」という映画が公開されました。
実は私はまだ観ていません。
その内容の良しあしは自分で判断するしかないのですが
能年玲奈さん改め「のん」さんが声優を勤めているというだけで
ワイドショーなどは一切報道しません。

実はこんなにも分かりやすい
時代を表す現象はないと思います。

権力を握っている人間が
圧力を掛ける
自分に都合の悪い人間を徹底手的に抹殺しようとする。

そして
「いじめ時代」に学校生活を過ごして来た
今大人になった人間が取る本能的な行動は
決して苛められる方に回らないこと
権力者にすり寄り
批判をする人間の誹謗中傷をきたない言葉でこきおろす。

ああいやな時代だと思うのです。
トランプ氏が当選した一つの理由は
こんな権力者が好き放題やっている世の中で
先の希望も見えないなら
いっそ壊した方がましであるという感情が働いている。

そして少しでも庶民の方を向いてくれと願う。
例え品がなくても仕事をしてくれればよいと。

実は言葉にできないが
日本でも同じ現象が起こっているのではないか。

田中角栄待望論が起こっているのは
アメリカでサンダース氏やトランプ氏に期待することと同じだろう。

でも
田中角栄は勿論いない。



世界の片隅に追いやられる多くの人々
中心を陣取るわずかな権力者と富裕層
そんな世の中に対する怒り

日本でも静かに動き始めているのではないだろうか。

そんな僕自身も
世界の片隅に追いやられていて
愛を語ることなんてできないのだけど・・・。

そんな科白を昔書いたことを思い出した。





人生という舞台で俳優になりたいあなたへ。




鴻上尚史氏がつかこうへいから受け継いだもの
あるいは二人は試行錯誤の末
二人が同じ結論に達したのかもしれないけれど

役者にとって最も大切なことは

「傷つくこと。」

人は誰でも傷つきたくないと願うけれど
それでも
誰かが傷ついている姿を目にする
目にしない人間はいないだろう。

傷ついて
それでもたったひとりの力で立ちあがる姿に
人々は感動し
その役者から勇気を貰うのだ。

そして
どんなに周囲が守ろうとしても
人は必ず傷つくものだ

大切なのは
傷つくことを畏れないこと
傷つきながら立ちあがる勇気と希望を持つことの方だ。


だからこそ
守ってあげたい人間が傷つかないようにしてはいけない。
むしろ正しい傷つき方を教えることだ。

正しい傷つき方とは
誰かのせいにしない。
誰かを妬んだり恨んだりしない。
立ちあがることができないのは自分のせいだし
達がる為には勇気と希望さえあれば良い
そう信じることだ。

過ちを犯したことを隠してはいけない
自分の愛する人に対してこそ厳しくなくてはならない。
自分の愛する人が立ちあがることができることを信じなくてはいけない。

それが本当の愛だ。

二人から僕が教わったことは
役者に限ったことではない。

受験や恋愛や仕事や友達の裏切りや
人生は傷つくことだらけだ
それが当り前なのだ

あなたに本当の愛があるなら
信じることだ。

「ライ麦畑で捕まえて」を読む少女の話





学校の門と校舎の間にある中庭はまるで公園のように
街灯が1本とその下に木製のベンチがおいてある。
その前方に広がる敷地は芝生が敷かれており
僕らはそこでサッカーやキャッチボールなどをして遊んだ。
あるいは時々クラスメイトとの遊びに疲れた僕は
皆と別れた後、そこに寝そべってヘッセの小説などを読んだりしたのだけれど。

仰向けに寝そべって本を読んでいると行間から
秋空が見える
その時見えた青空の中をゆっくりと形を変えて流れて行く雲の事を
僕はよく芝居の科白で書いてみた。
あの風景を思い出すたびに何故だか心が落ち着いた
一生こうやってぼんやりと空を眺めて過ごしてみたいと思っていたのだ。

ある日同じように芝生に寝そべって本を読んでいた。
陽が傾き空は次第にセピア色に輝き色づき始め
活字が読めなくなって来たので本から目をそらしたとき、
彼女がベンチに座って本を読んでいるのが目に入った
それは青とクリーム色(実は白だけどそう見えた)のツートンカラーの表紙の本で
僕はそれがすぐにサリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」あると分かったのだけど
何故その本をまるで漫画を読むように微笑みながら読んでいるのか
僕には不思議だった。

そのときベンチの脇の街灯に明りがともった。
彼女の顔が陰になり表情が見えなくなったけど
何故だか今度は彼女は泣いているのではないかと
思ったんだ。

何故泣かなくてはならない。

僕は自分に問いかけてみたけど
それは自分のいつもの身勝手な想像力の賜であって
何も根拠がないのだ。

再び振り返って空を見上げようとすると
校舎の屋上の手すりがシルエットとなって
黒い線を直角に交差させ
まるで空を水平に渡る梯子のようだった。

そのとき
その梯子を飛び越えて
誰かが落ちてきた
屋上から誰かが飛び降りたのだ。

「あっ。」
声は出なかった。ただ息が詰まっただけだった。
僕は急いでその人間が落下したであろう場所に走って行ったけど。
そこには死体どころか、猫一匹いなかった。
いったいどういうことなのだろうか?

振り返ると彼女はまだベンチに座ってサリンジャーを読んでいた。
僕には彼女がどうしても泣いているようにしか見えなった。

それから何日かは秋休みで
僕は家で受験勉強をしたり、相変わらずヘルマンヘッセの小説を読んだりして
過ごしていたのだけれど
秋休みの最終日に同じ学年のある生徒から手紙が届いた。
そう、まだインターネットやメールなんて想像できない時代。

 ☆ ☆ ☆

 森下君。はじめまして。
 いいえ、はじめましてと云うのは語弊があるかもしれません。
 私は毎日ではないけど、学校の廊下で森下君とすれ違っているし
 昼休みに門をよじ登って学校を抜け出して行く森下君を教室の窓から見ていますから。
 でも、森下君を一番身近に感じるときというのが
 私が学校の中庭で本を読んでいるとき
 森下君も芝生の上で一人本を読んでいるときがあるでしょう。
 土曜日の遅い午後はいつもそうでした。
授業が終わってもう4時間が経ち、部活動もしていない私達が
 何故だか学校に残って居て
 勉強もしないで学校の中庭で本を読んでいる。
 それって、早苗に言わせるとあまり普通じゃないことだそうです。
 早苗というのは私のクラスの親友です。
 ううん。親友というのはどうかなって思うのですけど、
 家族にも他のクラスメイトにもそう宣言しているので
 とりあえずそういうことになっています。
 周囲からは
 昔からひねくれ者の私
 優等生で美人の早苗
 そういうレッテルが定着しています。
  期末試験の最終日も私はあのベンチで本を読んでいました。
 サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」です。
 何故だか笑いが止まらなくて。
 これって私の考えてることといっしょじゃないなんて思うと
 自分ってこんな滑稽な人間だったんだ。
 こうやって文章で書かれると参ったなってね。
 
 あの日、私が2年間恋焦がれた人と
 親友の早苗は工芸室で抱き合っていました。
 一度もその話をしたことがなかったけど
 早苗は私が彼を好きなことは感じていたと思います。
 にも拘わらず
 彼女は私に待っていてって言ったんです。
 「ベンチでいつものように本を読んでいて」って
 そして校舎から別棟になっている工芸室に
 先生や誰かが近づいてきたら
 知らせに来てって・・・。

 森下君。あなたはいくら親友でもこんなことを頼んだりできますか?
 でも、私はにっこり笑って早苗に
 「任せておいて」
 って言ったんです。
 あなたとN君が結ばれるのを私は応援するするからって・・・。
 内心はN君を取られたくないって叫んでいたくせにね。

 そうしたら、森下君がいつものように芝生に寝そべって本を読み始めて・・・。
 私は勿論気付かない振りをして本を読み続けました。
 ただ、こう呟いていたんです。
 森下君。
 あなたはこんな馬鹿な私を笑う?
 私がもしもあの屋上から飛び降りようとしたら
 私を救ってくれる?
 あるいは本当に飛び降りてしまった後は駆け寄って
 抱きしめて泣いてくれる?
 森下君。
 私、あの屋上から飛び降りたいよ。
 こんな馬鹿な私
 この世から消滅させたいよ。

 そうしたら、あなたは
 校舎の方に
 あの手すりの真下に駆け寄っていきましたね。
 まるで私の気持ちを受け止めてくれるかのように。
 でも、それも私の妄想に過ぎないのだと分かっています。

 だから、私はこの手紙を書きました。
 まったく見当外れな変な手紙を書いてすみません。
 
 秋休みが終わり
 また学校が始まりますね。
 もしあなたがこんな変な私を
 嫌だとか気味が悪いとか思わなければ
 朝廊下ですれ違ったときに
 「おはよう」と言って下さい。
 昼休みに学校を抜け出す時私の教室の方を振り返って
 手を振って下さい。
 
 また、一緒にあの場所で
 お互い言葉を交わすことなく本を読みましょう。

 読んでくれてありがとう。
                       ヨーコ。

  ☆ ☆ ☆

 勿論それから
 僕達は毎日廊下で「おはよう」の挨拶を交わし
 昼休みの脱走時
 僕は彼女の教室に思い切り手を振った
 彼女は小さく手を振り返した。

 でもあの場所で本を読んでいるとき
 絶対にお互いに話しかけることはしなかった。
 お互いの読む本に集中できるように?
 勿論それもあるけど
 それが僕達のルールだった。

 僕は札幌の大学に進学し
 彼女は地元の大学に進んだ。
 それは彼女から聞いたわけでも
 クラスメイトから聞いたわけでもない。
 同窓会名簿のそう書いてあったからに過ぎない。
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